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国内で活躍する同窓生(敬称略)
三雲茂晴 (昭和 55年卒)    宮城県在住

東日本大震災の報道に携わって

震災報道 カットイン(一番左;筆者)

★ 岡山朝日高校卒業後、早稲田大学商学部に進学。卒業後、ミヤギテレビにアナウンサーとして入社。女子ゴルフ:宮里 藍選手(当時:東北高3年)のツアー初優勝の実況、佐々木主浩投手(当時:シアトルマリナーズ)の大リーグでの活躍等も現地アメリカで取材し特番も制作。今回の東日本大震災では、アナウンサーの責任者として陣頭指揮。去年7月からは、情報センター長(報道統括兼務)として、震災報道に携わる。
  ⇒私のいるミヤギテレビは、宮城県仙台市宮城野区にある。TVマンとして四半世紀…。
 去年3月の未曾有の大震災は、震災報道の難しさ、ローカル放送局の役割など、改めてTV報道のあるべき姿などを考えるきっかけを与えてくれた。 

 以下、発災直後からの動きをまとめてみた…。


★ 2011年3月11日(金) 午後2時46分 〜発災当日〜

 発災時は、私はミヤギテレビ2Fで打ち合わせ中だった。大きな地鳴りと共に、座っていられない程の大きな横揺れ、一緒にいたスタッフに、「落ち着いて行動して!慌てない!大きな揺れは1分程で収まるはず…(実際は、1分では収まらなかったが…)。」と言い残し、直ぐに1Fの報道フロアに駆け込んだ・・・。

 報道フロアのTVや棚が倒れ騒然とする中、通常の放送から震災報道に切り替える(所謂:ローカルカットインの)準備を指示するも、程なくしてTV局内は真っ暗に…停電だ。急遽、非常用の自家発電に切り替え、発災から10分後の午後2時56分から、日本テレビ(に上る全国ニュース)への対応を皮切りに、その時間に通常放送している「ミヤネ屋」を中断し、ローカル放送に切り替えて震災報道が始まった。


★正確な情報&映像が入ってこない…。

 言うまでもなく、正確な情報&映像がTV報道の命である。しかし、その情報を得るにも、電話・携帯・メールが当初は全く繋がらない…。

NNN東北ヘリ全壊

 優先ダイヤルの電話を活用し、記者からライフラインの情報等が徐々に入ってきたが、大津波警報が出された沿岸部の市町村役場、警察、消防とは、ほとんど連絡がつかない状態が続く…。そんな中、まずは淡々と、視聴者に津波からの避難を呼びかけ続けた・・・。

 「○○町は、壊滅的な状況です…。」「○○浜には、数百の遺体があがっているらしい…。」これまで耳にした事のない信じられない情報が錯綜する中、裏の取れない情報も多く、直ぐにOAに結びつけられない…もどかしい状況が続く中、肝心の映像も入ってこない…。

 報道専用のヘリコプターも津波で流され飛行不能に…。更に、仙台空港に押し寄せた津波で空港に設置していた情報カメラも機能停止…。沿岸部に設置していた<気仙沼・石巻・女川>の情報カメラも、津波で全て機能停止に陥った。ヘリコプター・情報カメラという発災当初の映像の基本収集機能が、津波によって完全に失われてしまったのだ。

           

★アナログ時代に逆戻りの放送現場…。

円陣の中背中ごし

 社内LANもダウンし、原稿システムも使用不可・・・記者からの情報は、メモ書きでアナウンサーに入ってくる…。そのメモをベースにアナウンサーは構成を考えながら喋っていく。メモ用紙も底をつき、コピー機もダウン…。スタッフ間の情報共有も上手くできぬまま、全国への上りニュース対応と、地元向けの情報を発信し続けた。

 この非常時に民間放送であってもCMカット〜CMを挟まない〜震災報道がエンドレスで続いた…。もちろんアナウンサーも記者もカメラマンも、震災報道に携わるスタッフ全員が被災者である・・・。家族の安否は…!?家は大丈夫か…そんな不安を抱えながら、動揺を必死で抑えながら、不眠不休で、見えないゴールに向かって、情報を発信し続けた…。
 

★全国からの応援スタッフ

 新幹線始めJR各線がストップ、空港は津波で閉鎖、高速道路も不通…そんな状況下でも、東京、福岡、広島、名古屋などから、日本テレビ系列(NNN)の応援部隊が発災害当日の夜にかけてミヤギテレビに続々と入ってきてくれた。

 その数約130人…。東京から、名古屋から報道ヘリも到着し、空からの被害映像も入ってきた・・・。同時にガソリン、重油、食料、下着、歯磨きセットといった物資も全国の系列各局から集まり、不眠不休で対応していたスタッフを交代で休ませる事が可能に、徐々に体制を建て直す事ができた…。
 

報道フロア一番左(筆者)

★ こんな所(平地の市街地)にまで津波が…。

 NNNの報道ヘリは、夜になっても沿岸部の気仙沼湾が炎に包まれている映像を映し出していた。一方で、ミヤギテレビから5キロほどの離れた場所にある石油コンビナートの火の手も一向に収まらない。サイレンは鳴り続けているのにどうして消火活動をしないのか…。

 情報も少なく&錯綜する中、伝え手として苛立ちが隠せない…。しかし夜が明けて・・・ようやくその理由が把握できた。

 津波が運んできた瓦礫やヘドロで道が無くなり、消防車両が火災現場まで近づけない状況になっていたのだ…。沿岸部だけでなく会社から僅か2〜3キロしか離れていない平地の市街地まで津波が押し寄せていたのだ…。想像をはるかに超えた現実を目の当たりにし 言葉を失った…。

 


★ローカル放送局の役割

 震災から数日が経ち、死者&行方不明者など被害の大きさが明らかになるにつれて、全国に向けての震災報道とは別に、ローカル局として何ができるのか、何をすべきなのか、被災者が今一番求めているのは何なのか…!?とスタッフと自問自答する中、一つの答えを出し敢行したのが、ローカル特番の中で行った安否確認情報だ!

 行方が分からなくなっている方々の安否を確認するメールを募集し、次々と紹介…。併せて、避難所から“自分はここにいる…何とか生きている…”と安否を知らせるメッセージを撮影し、次々と紹介。安否確認にローカルTV局を積極的に活用して欲しい…そんな強い想いだった。その反響は大きく、ローカル特番には7,400件を超えるメール&FAXが寄せられた!別々の避難所に居て会えてないけど、TV(ローカル特番)を通して無事を確認できた…という嬉しい連絡も頂き(微力ながら)その存在価値を…少し実感する事もできた。

安否情報

★記憶を風化させてはならない!

近況デスクにて筆者

 発災後、最初の一週間の記憶は、殆どない…。それくらい(自分自身も)死と向き合いながら覚悟し必死に伝えてきた…これが偽らざる実感だ…。人・町の全てを一瞬にのみ込む津波の脅威を目の当たりにし、人間の無力を感じながらも、何を取材し、何を伝えるべきか自問自答の日々が続いた。一方でそんな惨状の中でも、弱音を吐かず前向きに歩んでいく人々の姿に励まされ、大きく勇気付けられた。

 2012年は“復興元年”である。ベガルタ仙台、楽天イーグルスの公式戦も当たり前に開催されている 杜の都仙台は、平時に戻りつつあるが、大震災から1年が経ち、世間からは震災に関するニュースが日々消えていく現実もある。

 一方で県内を見渡せば、沿岸部を中心に、未だ復旧という言葉を言うのもはばかれるエリアも多いのも事実である。大量の瓦礫はどう処理する!?高台移転の問題は!?食の安全は!?子供たちの心のケアは…課題山積で復興への道のりは決して平たんではない。記憶を風化させてはならない!

 縁あって宮城に来て26年目…生かされた命、育てて頂いた宮城県、東北地方に恩返しする為にも、今回被災した宮城、そして東北が、しっかり復興の道を歩み始めるのを、粘り強くこの目でしっかり見届けたいと思う! 
 

(昨年の京浜同窓会会報(H23年9月1日発行)に掲載された三雲さんの手記をベースに、近況を交えてご寄稿いただきました。)
   
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