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世界で活躍する同窓生からのメッセージ(敬称略)
小林龍一郎  (昭和60年卒) フランス パリ

外交の世界に身を置いて

タイで行われたAPECのロジ本部にて

 僕は岡山朝日高校を昭和60年に卒業しました。高校2年生の始業式の日に、隣の席に座っていた女性が妻となり、朝日高が結んだ縁は、今年四半世紀の時を経ようとしています。

 放課後のデートは高校の図書館ということが多かったのですが、座って静かに読書をするわけではなく、書架の間を歩き回っては、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』にある蛙をナイフとフォークで器用に食べる下りが面白いとか、三島由紀夫の『金閣寺』に出てくる夫を戦場に送る妻を描いた描写が凄いとか、西部邁の評論を読んでは語気強く議論をしたりと、そういう思い出が朝日高校の図書館には詰まっています。

 高校生の僕は、どうしようもなくひねくれた青年で、与えられることが嫌いで、押し付けられることも嫌いで、だから授業も嫌いで、授業中に解りもしない大学のテキストを広げてみたりして、試験の成績は常に下の方でした。

 それでも、僕は、なぜだろう、国連で働きたいと急に思い出し、そのためにどうしても東大に入るのだと思い込み、3年の担任でおられた片島先生を、進路相談の度に困惑させる生徒でした。

 3年生の時、何度か行われる保護者会に、自分の人生だからと親を連れず自分一人で最後まで参加し続けたのは、今では笑い話と言えますが、そのことで先生に怒られたことがなかったのは、自主自立の朝日の伝統の証でありましょう。

政府専用機の前で記念撮影

 結局その後、複数の浪人と複数の留年を続け、それでも初志を貫徹すべしと頑張ったのですが、ある朝にふと馬鹿らしくなって(憑き物が取れた感じでしょうか)、シネマと読書と少林寺拳法とバイトに明け暮れるという仮面を脱いだ普通の大学生に戻りました。

 なんでも自己流を押し通すのが悪いのだと反省しながらも、自分の人生を自己流で貫いて何が悪いと自己弁護する自分が傍らにいて、また、走り出さなきゃ駄目じゃないかと焦る自分と、まだまだ未完成の自分を世間に晒すわけには行かないという迷いが交差し、開高健の至言ではありますが、「悠々として急げ」という境地に達した時にはもう25歳になっていました。

 その頃の僕は、国際政治学の中の国益理論に興味を抱き、大学と大学院で勉強をしていましたが、理論と実践を両立させるには、自分が外交の当事者になるべきであると考え、一念発起して外務省に入省しました。

 

インドネシアのボロブドゥール寺院の朝焼け

 27歳の春、新入省員として総合外交政策局国際科学協力室に配属になりました。国際科学協力室は、日本と外国との科学技術分野における国際協力を推進する部署です。日本人宇宙飛行士のスペースシャトル搭乗やハワイのマウナケア山頂にある国立天文台等の案件で毎晩残業の日々でしたが、やっと社会人になれたという実感を噛み締め、また、現岩手県知事の達増拓也さんが、当時直属の上司で外交のイロハを伝授していただけるのが嬉しくて毎朝仕事に行くのが楽しみだったのを記憶しています。

 その後、フランスに留学し、フランス第二の都市リヨンで2年間の在外語学研修を行いました。研修終了後、西アフリカのギニア共和国に赴任し、日本のODA外交の最前線を経験するわけですが、特に力をいれたのが草の根無償資金協力でした。これは、現地の村落等からの要請を受け比較的低額な予算で現地の人たちにとって必要不可欠な小学校や産院、保険所等を建設するものです。

 砂埃の中、何時間もガタガタ道を車に揺られ、現地の村落に到着するのですが、どこの村に行っても遠方からの友人の来訪ということで村を挙げて大歓待で迎えてくれました。アフリカの奥地はもちろん電気もガスも水道もないのですが、不自由さを感じると言うよりは、むしろ日本の生活の豊かさの中には、無くても済ませられるものが実は多いということに気づかされました。

ロマネコンティの畑の前で妻と

 2年間のアフリカ勤務の後、本省に戻り欧州局西欧第一課でフランスを、経済局総務参事官室でサミット等の大型行事をそれぞれ担当し、フランス赴任直前までは領事局及び経済局でアジア各国との経済連携協定(EPA)交渉を担当しました。

 外務省に限らず霞ヶ関にある各省庁は霞ヶ関の不夜城と言われ、夜中や場合によっては明け方まで残業の電気が赤々と点ります。僕も入省以来、本省勤務では平日に家で夕食を取ることは数えるほどしかなかったのですが、大好きな外交の世界に自分が居るという事実に感謝し、喜びを持って仕事を続けて来れたと思っています。

 アジア各国とのEPA交渉の中で僕が担当していたのは、フィリピンやインドネシアから看護師や介護福祉士に日本に来ていただくというプロジェクトで、これは日本社会にとって初の試みであったため、一から制度を設計していくという大変貴重な経験をすることができました。

 この交渉妥結に至る道筋は極めて困難なもので、フィリピンには1年半に20回以上も出張することになりました。その間、外務省、厚生労働省、法務省や経済産業省、警察庁の仲間たち先輩たちと一つの目標に向かって一緒に仕事ができたことは、霞ヶ関の住人として貴重な経験であり、また一生の思い出になったような気がいたします。

近所のマルシェでみつけた仏の初夏の野菜

 外交官の仕事を一言で説明すると、国家・国民のために他国との関係を切り結んでいく任務ということになると思います。学生時代に抱いた「国益とは何か」という疑問から始まった長い旅は、ようやく15年が経過しようとしています。

 その答えは僕はまだ持ち合わせていません。せいぜい言えることは、自分は国益のために生きてきたんだと何時の日か自信を持って自分自身に言い切れるように、毎日を油断することなく、努力を積み重ねていくことが大切なのであろうということではないでしょうか。

 冒頭申しあげた高校3年時の進路指導で片島先生に仰っていただいた、「国連で世界を相手に仕事をしたいとする君が何で大学にこだわるのだ」という言葉は今でも心に残っています。他国の外交官と接していて、相手の視線の先にあるのは、その人の能力、知識、人格を含むパーソナリティのみであるということは実感であり、先生の言葉を理解し得なかった高校生の僕の未熟さを今もって反省する次第です。

 休むことなく自分を磨きこんでいき、どこまでも自分と向かい合い、そして広い世界に自分を向かい合わせてみる、口にするのは簡単ですが、これこそが外交官の人生であり、醍醐味であり、究極の姿であると、尊敬する先輩の教えを今度こそはと身をもって受け止めている自分がここにいます。

エジプト出張の休みの日に念願だったピラミッドに

 妻と話をしているとたまに高校時代の同級生に戻ります。故郷を離れて幾星霜、街並みは変わっても、自分を育ててくれた母校との絆は変わりようがありません。高校の合格発表で手を叩いて喜んだ中庭、美術の写生の授業中に菓子パンを頬ばった部室裏、冬は氷点下にもなったあの階段校舎、柔道の先生に何度も締め落とされた柔道場、遅刻届を取りに行くのに様々な言い訳を考えながら上った職員室へ続く階段、たくさんの思い出が詰まったわが母校、次回帰国した折には、彼女と懐かしいキャンパスを思い出を確認しながら散歩してみようとふと思いました。

 

 

【プロフィール】
1985年岡山朝日高校卒業。学習院大学、早稲田大学大学院を経て1994年外務省入省(仏語専門職)。リヨン留学後ギニア勤務、ODAの最前線を経験。帰国後、西欧一課で仏担当、総務参事官室でサミット等大型行事担当、経済連携課等でアジア諸国とのEPA担当、2006年仏赴任、政務担当を経て、2007年10月より大使秘書、二等書記官。
少林寺拳法4段。著書「解説FTA・EPA交渉」(共著)。妻由紀子(旧姓入江)。
  連絡先:ryuichiro.kobayashi@mofa.go.jp



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