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メディアに登場したホットな同窓生をご紹介(敬称略)

後神 俊文 (昭和27年卒) 岡山朝日高校校史編纂室
  
 創立130周年を記念して

 「岡山朝日高等学校の生い立ち、戦前篇」を上梓。


  本の執筆についてインタビューしてみました。
100周年の準備の時から(1973年)資料集めを始められ、120周年の時から「校史の編纂」に取り掛かられておられますが、『生い立ち、戦前篇』の校史編纂の中での位置づけは?
 まず、資料集めとは何かということだが、30年間資料集めをしてもまだ肝心なところは足りない。資料には、生徒の手元に残る資料と、学校にしか残らない資料、教師の手元には残る資料などある。例えば「学校要覧」は外来者に手渡すものなので、教師の手元には残らない。学校に残った資料は空襲で焼け、鉄筋校舎への改築の時に捨ててしまっている。一度捨てられると、もういくら時間をかけてもどうにもならない。
 明治の教科書は呼びかけると集まってきたが、それだけでは十分ではない。その頃でも洋書(原書)は学校が貸し出したから、学校が焼けてしまったらもうない。

 もっとも、カリキュラムの表は、教科書が集まっても通知表が集まっても再現できない。カリキュラムの表のない校史なんてないのだが・・・

 多くの学校では50周年、60周年、100周年には校史を作っている。130年間一度も作っていない学校は本校だけ。一度に作るとなると資料集めを何十年しても難しい。

 『生い立ち、戦前篇』を作ったのは、生徒に学校の伝統を語れる人がいなくなったから、生徒に学校の歴史を知ってもらおうと思って書き始めた。しかし途中で気が変わり、専門家にも利用できるものにしたくなった。きちんとした”校史”ができてからダイジェスト版を作るのが普通だが、この本は逆に”校史”ができるまでのつなぎの意味も込めた。生徒には読みにくいが、専門家からは読みにくい本ではなかったという評をもらった。生徒用だけに作ったらよそへは出せないものになったろうね。

 “校史”はきちんとした資料集に文章をつけ、専門家の要求に答えられるものでなくてはなるまい。校史編纂を引き受けた時、恩師の山崎尚志先生に「誰も読まない本を作るのか」と笑われたが、教育史の専門家だけは読むと言い返したよ。近代教育史の専門家にとって岡山だけが空白なんだ、朝日高校が出さなかったから。

 “校史編纂”の出発点は、専門家にも利用されるものを、というものだった。 
 だから『生い立ち』でも、出だしは一番問題のあったところ、専門家の意見の違うところなので、きちんと書こうとして難しくなってしまった。
 資料集としての”校史”は読んでも面白くない。だから『生い立ち』は別のことをねらった。だが『生い立ち、戦前篇』を単なる物語とはせず、裏が取れるものだけを書いたつもりだ。

「岡中・一中・二女で学んだ生徒の姿を、現在までに検証できた史実に基づいて再現しようと考えた」とありますが?
 学校の歴史は、生徒と先生が互いにどう働きかけながら学校を動かしていったか書くのが本来の姿だろう。規則と教員だけを書いても学校の歴史にならない。生徒がいて初めて学校だろう。

 話は飛ぶが、京都の資料は応仁の乱で焼けている。だから民衆の動きを取り上げざるを得ない。常に下からの動きをどう取り上げるのかが京大の歴史の学風といえよう。史料編纂所を抱いた東大の歴史学に対してね。

 学生の時、史学科の英語の教科書として使われたアイリンパワーの『中世の人々』に影響を受けた。パリ近郊の修道院の荘園のボドという農奴の一日を再現する形で、歴史が叙述されていた。農奴の生活がいきいきと描かれていた。歴史をそういう目で書くことを学んだ。

 朝日では資料が不十分だったから、卒業生の思い出などから校史を描かなければならない。苦肉の策だったが、それは一中の卒業生が書いたものだからできた。どこをとっても単なる回想ではなく、時代がきちんと書かれていた。戦前の一中生は優秀だった。さらに、二女は何もなかったので、太田三保子さん(昭和24年卒)の日記を引用させてもらった。私がこの学校に入った頃の日記と比較するとはるかに優れている。それだけの観察眼があるから引用してもおかしくない。それでも彼女は戦後になってからの日記は見せてくれない。乙女になってからのものはね(笑)

 上から見る資料はなかったが、適切に引用できる卒業生の文章が多かったことがとても役にたった。学校の歴史は教員側から見て書くものではなかろう。

多くの人に取材されたと思いますが、どのくらいの人に会われたのか、また、印象に残る出会いや思いもよらぬ発見はありましたか。一番のご苦労は?
 取材を目的に会った人はほとんどいない。人の記憶は非常に曖昧。記憶力に自信のあった私でもよく勘違いしているのだから、一般的記憶はあてにはしない。文章を深く読んだ方がよく探れる。こんなことがあったと聞いたら、聞いたことを資料で調べた上で本人に確かめるということをしているので大変手間がかかる。

 資料といえば、内藤はま子さん(昭和51年卒)にとても助けられた。100周年の時に資料があるとの連絡をいただき、大量に展示していただいた。この資料は110周年にも使わせてもらった。

 おじいさんの斐彦氏もお父さんの治彦氏も卒業生で、お父さんが亡くなったあと資料を全部寄贈してもらった。

 戦中・戦後の資料は大森重太郎先生の保存のものを全てコピーさせていただいた。貰ったプリントは一枚も捨てないという先生なので本当に全部残っていた。貴重な資料だった。私は、大森先生はじめいろいろな先生にかわいがってもらったが、このことが資料集めには大変役立ったと思う。

もし仮に一度だけこの本の中の時代にタイムスリップできるとしたら、いつの時代に行きたいですか?
それは生徒としてですか、教師としてですか?

 やっぱり明治20年代だろう。あの頃が花だったから。すごい人ばかりそろっていたから。無茶をする奴もいたが、この学校の一番いい時、一番の秀才が集まった時代。勉強するなら、生徒としてその時代で力をためしてみたいなあ。

生きていれば会って話をしてみたい人物はいますか?

 会ってみたいといえば、木畑竹三郎(明治21年卒)だな。息子さんには会ったし(貞清氏・大正6年卒)、孫(洋一郎氏)は操山高校での教え子(東大大学院教授)。
 木畑竹三郎は「教員は、渡し守のように生徒を船につんで向こう岸に渡り、生徒が遠く離れて行ってくれるほどいい」と言ったような人物だ。

同窓生および在校生に向けて本のPRを。

 PRというより、誤りを指摘して欲しいということをお願いしたい。
 たとえば、大安寺高校は30年史を作ったが、次には50年史ができるかも知れない。そうしたら30年史のミスはそこで訂正される。しかし朝日の130周年史が133年にできたとして、130年史のミスは・・・。

 150年史が作られることはまずあるまい。ということは130年史ではミスが許されないということだ。今のうちにおかしいところがわかれば調べることができる。だから誤りは指摘して欲しいし、批評をお待ちしている。

 ただ、私は楽しい本だと思って書いた。

こんな資料や情報を提供して欲しいというご希望があれば。

 関係がありそうでもなさそうでもよいから、とにかく情報や資料はとどけてほしい。こんなものは既に集まっているだろうとか、是は役に立たないだろうと、適当に取捨しないで、とにかく見せてほしい。何に使えるかを私に判断させていただけると有難い。

 
岡山朝日高校同窓会公式Webサイト