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原 雅久 (昭和29年卒) 東京都在住
私が選んだ仕事 ― 挑戦こそ出版の原点
略歴 : 学習院大学卒業 株式会社朝日出版社創業 同社社主
高校2年の修学旅行 屋島にて
 いま思い返すと、高校時代の自分は驚くほどのんびりしていて、進路など将来のことはまるで考えず毎日を送っていた。しかし、高校2年のとき、或る講演を聴いたことをきっかけに、自分も出版の仕事に携わりたいと、漠然と思うようになった。
 その講演で小林秀雄氏が語った「本居宣長」の「もののあはれ」に深い感銘を受け、また、角川源義氏(角川書店創業者)の文庫創刊の話に圧倒され、「自分も本を創りたい」という思いが芽生えた。

 大学入学後に、当時、出版社でアルバイトをしていた友人の話を聞き、また、その頃、学習院大学の安倍能成院長(夏目漱石の弟子で岩波書店『哲学叢書』の編集に携わる。)と卒論の担当教授だった秋山英夫先生(秋山はペンネーム、朝日が本名)から、岩波書店の話を伺い、自分にいちばん合った仕事が出版だと感じるようになった。それは23歳の頃だったが、実際に自分で出版社を立ち上げるには、資金が必要だ。実家は私が家業を継ぐものと思っていたので、あてにすることはできず、アルバイトをし、資金をつくり、卒業後一年目で、出版社を創立した。出版社名は、朝日高校出身であること、また、大学時代にお世話になった恩師(朝日英夫先生)の名前から朝日出版社とした。

 卒業した大学のドイツ文学科の恩師の助言もあり、最初は、大学生向けのドイツ語のテキストづくりからはじめ、大学数も学生数も年々増えていく傾向もあり、やがてドイツ語テキストの出版は波に乗ることができた。
 当時、ドイツ語もフランス語と同様に、世界の主要な言語のひとつと思われていて、文語体の重厚なテキストが多かったので、これからは、時代に即した「口語」を取り入れた語学のテキストをつくっていこうと考えた。
 しかし、それだけでは採用してくださる先生方の目にとまることは期待できず、また、たとえ新しい形式であっても、大学の授業に耐えうるテキストでなければ受け入れてもらえない。
 毎日が試行錯誤の連続だったが、模索し続けた日々が報われ、「口語」を取り入れた、新しい形のテキストは、多くの先生方の支持を得ることができた。

 この経験を、フランス語のテキストにも、また後に英語のテキストにも活かし、「読む」だけではなく、「口語」を中心にした、「聞く」「話す」を取り入れた、これまでにない総合英語のテキストを出版した。
 当時、日本の車は優秀で、非常に数多く海外に輸出されていた。そこで、まだ知られていない海外の文化を知るために、また、日本の文化を海外に紹介するために必要なのは語学であると感じ、ドイツ語の次はフランス語、次に英語を、後に中国語、スペイン語などの多くの語学を取り扱うようになった。

 次に、「これからの時代は、口語英語だ」と確信し、経験が豊富な編集者を集め、『日米口語辞典』をつくり、英語にすることがむずかしい「侘び」「寂び」といった日本語を、どのように表現すればネイティブにも通用するか、一語一語ていねいに確かめる作業を日夜続け、新しい「辞書」ができた。ありがたいことに、辞書は多くの読者の共感を獲得し、ベストセラーになった。
 辞書をつくることによって、常識の枠を超えた、まったくあたらしいものを創り出すことは、作り手にとっても、受け手にとっても、大きな喜びになることをあらためて実感することができた。
 こうして語学の教材が軌道に乗ってきたこともあり、講演を聴いて以来、手がけてみたいと思っていた思想、哲学を中心とした人文科学の雑誌『エピステーメー』(雑誌名の「エピステーメー」は、思想哲学の第一人者、ミシェル=フーコーが提唱した概念)を創刊し、最先端の世界の思想哲学の本も刊行することで、出版社として専門家の評価も受け、人文科学の優れた研究者の方々の原稿依頼もできるようになった。

 そして、本格的に一般書をつくりはじめる契機が訪れた。きっかけは、編集者に竹内均先生(地球物理学者 東大名誉教授 科学雑誌『Newton』の初代編集長)に会って話を聞いてくるように指示したところ、竹内先生は松本清張氏(推理小説作家『点と線』『砂の器』など)に講義をされているとのこと。
 そこで、専門家と作家の対談を本にすると面白いと思い、「レクチャーブックス・シリーズ」を立ち上げた。一般の人には少々縁遠い専門的なテーマであっても、親しみやすく、理解しやすい、編集を心掛けることで多くの読者に受け入れられ、シリーズは50巻近くまで続けることができた。
 また、「言葉は生きている」と実感し、30年前、24時間フルタイムの報道専門テレビ局であるCNNの番組のフレッシュな生きたニュース英語素材をふんだんに取り入れた、月刊の英語学習雑誌『CNN ENGLISH EXPRESS』(シーエヌエヌ・イングリッシュ・エクスプレス)を創刊し、現在でも刊行を続けている。
 出版において思い切って勝負をしようと思ったことといえば、写真集『サンタフェ』(印刷部数160万部)を刊行したときだ。
 最初は、フランスの女流写真家ベッティナ・ランス(1952年生まれで、「シャネル」のムービーを手がける)の世界を震撼させた写真集を出版したところから始まり、これは写真が日本でどこまで芸術として認められるかの試金石にもなった。そして篠山紀信氏との出会いがあり『ウォーターフルーツ』などを経て『サンタフェ』につながった。

 また、自信を喪失するほど打撃を受けたこともある。それは、伊丹十三氏を編集長に迎えて刊行した雑誌『モノンクル』を創刊したときで、いろいろな事情で大きな打撃を受けたが、それでも出版をやめたいとか、投げ出したいと思ったことは一度もありません。

70歳のとき
 出版業は、新しいアイデアで本を生み出す仕事ですから、出版するたびに新鮮な喜びが生まれ、それがどんどん大きくなり、大きくなればなるほど、更なる大きな仕事に対する欲がでてきます。毎日毎日、形のないものを、形のあるものにしていく、この面白さは何ものにも変えられません。
 なんの経験もなく、未知の出版の世界に飛び込んだ、二五、六歳の若者が、約50数年間、出版を続けることができたのは、「自分にはこれしかない」と思ってやってきたからなのかもしれません。今まで歩いてきた道以外は、全く考えられませんし、その気持ちは創業時代から今も変わりません。
 中学生の頃、父が毎晩ビジネスの手ほどきをしてくれたこともありがたく感じる。父は「何よりも信用が大切だ」と言っていた。まさしくその通りで、信頼関係を築くことで、困難な企画も出版に漕ぎ着けることができた。人付き合いは苦手な方だが、人と人との繋がりがなければ今の自分はなかっただろう。高校・大学時代に一緒に語り合い、遊ぶことでできた友人たち、今でも親しくできる仲間がいたことも幸いだった。親しい友人や、助けていただいた方々には今も感謝し、とても大切に思っています。

 私は、いま82歳ですが、外から入ってくる情報を常に敏感に感じ取り、自分のものにしていけば、時代に遅れを取ることはないと思っている。新しい企画が実現すれば、また次の段階へ進んでいくというふうに面白さが拡がり、これには終わりがありません。

 私はこれまで自分のやりたいようにやってきましたが、ともすれば会社の人間ばかりでなく、読者との乖離も生じてしまいます。初めからデータがあり、答えが用意されているわけではないので、読者がどのようなことに興味を持ち、どのようなことに啓蒙されるのかを自分の肌で感じ取り、自分が実感したことをベースにそれをいかに集約して本に仕上げるかが大切です。
 私には目標となる出版社がありました。その出版社を目標とし競合する相手として、今も心のなかに持ちつづけています。
いつも新しいものを求め続けてきたからこそ、毎日が楽しく、面白く、なんとか今日までやってくることができたのでしょう。
 今後、目指したいのは、日本の文化を海外に向けて輸出し、しかも海外の文化を日本に取り入れ、文化の交流を実現する挑戦者として、インターナショナルな出版社とすることです。

平成26年 同期の仲間と

 昭和29年(1954年)に朝日高校を卒業した私たちが29会を結成して
63年が過ぎます。

 後輩のみなさんのお役に立ちたいと、29会の40周年が創立120周年に当たり、記念に五木寛之先生に講演をお願いしました。以来、50周年記念(創立130周年)では養老孟司先生に、60周年記念(創立140周年)では中村桂子先生に講演をしていただきました。毎回、生徒さん方と同窓生のみなさんで
2000人近い方に来ていただいています。

 これからは、次の70周年記念(創立150周年)の会を実現させたいと思っています。



平成16年 50周年記念 (母校創立130周年) 平成26年 60周年記念 (母校創立140周年)

 



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