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 本校のシンボルの一つは桜である。現代は着物の模様に桜が取り上げられることも少なくなったが、明治時代には最も好まれたものであり、全国的にみて桜をシンボルとした学校はあまりにも多かった。本校のは、岡山中学の岡(オカ)を桜花(オウカ)と置き換えたのであり、流行に乗ったわけではない。明治20年(1887)頃のことであり、明治29年(1896)に烏城城郭内に建築された新校舎の正面には、桜花一輪のこの校章が取り付けられた。校章は、明治33年(1900)に、蕾や葉を持ったほぼ現在のと同じものに変更されるが、これは美術教師の森屋熊夫の手によるものである。

 明治30年代になって、中学校が連合して分列行進を行なうようになると、軍隊の聯隊旗を模した校旗が必要となり、明治42年(1909)になって光岡金雄校長は自腹を切って新調した。この校旗には、瑞雲たなびく碧空の中心に、金色の太陽がおかれ、その中に三足烏が描かれていた。三足烏がとりあげられるに至った経緯は、誰も書き残していない。憶測すれば、次のようなことであろう。

 校舎に隣接する城は、いかつい黒い外観から「烏城」とよばれたが、金箔瓦が用いられていたということで「金烏城」と言い伝えられてきた(鬼瓦に金箔が貼られていたことは、発掘で確認された)。この「金烏」という言葉は、当時の知識人(教師)の脳裡に、現代人には考えにくいイメージを呼び起こしたようである。たとえば、奈良時代の悲劇の象徴であった大津皇子の辞世の詩は、「金烏臨西舎」(日は西の家屋を照らし)ではじまる。この「金烏」は太陽のことである。つまり漢文の素養のある者は、太陽の異名と受け取ったのである。

 古い中国では、太陽に烏が住んでいる、或は、烏は太陽にこもっている陽の精気が凝り集まってなった「日之精」と考えられた。もっとも有名な文献は『淮南子』(えなんじ)で、この「精神訓」には、「」とある。「」は「蹲」の古文で、「うずくまる」という意味であるから、太陽の中に烏がいるという意味になる。もっとも太陽に烏が住むという発想は、もともと太陽活動の極大期にあらわれる巨大黒点にもとづくものであろうから、似たような神話は、他の地域にもみられる。

 ところで、紀元前に著作された中国の古典には、特に三本足と書かれているわけではないので、二本足の普通の烏であったに違いないが、のちに古典を注釈する学者たちが、奇数を重視する易の影響をうけてか、太陽に住む烏は三本足だと主張するようになり、図像でも、三本足の烏が描かれるようになった。時期的には紀元前後、即ち、2000年ほど前のことであり、現在では、誰もが太陽に住む烏は三足烏だと考えるにいたっている。

 岡山中学の校旗では、この中国の伝説がそのまま図式化された。いや、正確に言えば、僅か違う。校旗の烏はうずくまっているのではなく、飛翔しようとしているからである。校旗の作製にあたっては、したがって、烏城を校地としているから、烏をシンボルとしたという単純なものではなく、烏城から金烏城、金烏から太陽、そして太陽に住む三足烏という連想が働いたとみられるのである。

 この校旗の烏を八咫烏だという説をなす者もあるが、校旗が作製された時点では、中国文化の影響が主流であった。八咫烏は、イワレヒコ(神武天皇)が紀州から大和に侵入しようとして、熊野で前進を阻まれたときに、アマテラス(天照大神)が派遣した烏で、イワレヒコの軍を先導したと記紀にある。八咫とは大きいという意味。三本足とは書かれていないにもかかわらず、誰もが三本足というのは、これも中国の影響である。八咫烏は太陽神アマテラスのお使いであり、熊野那智大社の扇祭では、神官が八咫烏帽を被って、八咫烏になりかわって神事を執り行なうというように、背後に太陽信仰が見えることは言うまでもないが、前述のように図像的には、本校の校旗は、日本神話よりも、中国の直接的な影響をうけている。

 その後、三足烏は生徒の好みにも合い、運動関係の各部は、さまざまにデホルメされた三足烏を身につけて、戦いに臨んだ。だが、空襲で校旗は灰となり、学校は高校に昇格して烏城の地を離れた。とはいえ、移転先は周知のように桜花の美しい地であり、校章はほぼ中学時代を踏襲し、校名は「朝日」を名乗った。だから本校は、今も桜と三足烏をシンボルとしている。

 

朝日高校と三足烏 岡山朝日高校同窓会公式Webサイト 校史作成委員会監修