2000年(平成12年)10月18日  同窓会会報 朝日
第7号
発 行
岡中・一中・一高・二女・二女高
岡山朝日高校  同  窓  会

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このコーナーでは、恩師からの寄稿文のみを掲載しています。全体をご覧になるには、毎年お送りする会報「朝日」をご覧ください。

校歌作曲回顧
中山 善弘(昭和二十二年卒) 
〈昭和二十八年〜平成一年在職〉

 私は昭和二十八年の春、朝日高校に勤務を命じられました。新任校は旧制一中と二女の合併校で、二十四年八月の高校再編成により男女共学の「朝日」と改称されました。朝日高校の前身は明治七年創立の温知学校となっておりますから、昭和二十九年は創立八十周年となり、高校となって最初の節目の年を迎えることになります。新制の高校になってから歌われていた校歌は、旧制一中の校歌で、大正十三年の創立五十周年記念に作られたものです。作詩者は定かでなく、おそらく当時の教員の有志による合作ではなかろうか、とされておりますが、作曲は日本音楽界の重鎮、山田耕筰氏の手になるもので男性的にして勇壮、かつ躍動感に満ちた作品です。歌詩のなかにある「歴史は長し五十年」は、時代の流れとともに「六十年」「七十年」と変えて歌われました。
 私の勤務した当時は、まだ朝日高校に校歌はなく、前記の旧制一中の校歌が歌われておりました。当時職員室には中学校の恩師の先生方が多数在籍されておられまして、先生方からはたいへん親切にしていただきましたが、学校では頭が上ることはありませんでした。職員室には旧制中学校時代の名残りがあり、新米は「五年間はものを言うてはならぬ」という暗黙の了解事項のようなものが存在していることも耳にしておりましたから、当時はずい分と周囲に気を遣ったような記憶が今でも残っております。
 二年目の春に、恩師の岡野平吉先生がわざわざ私の机まで来られまして、「君、朝日の校歌を作ってくれんか。歌詩は服部忠志先生が書かれるから」と言われました。寝耳に水とはこのことです。会議の議題にも噂にも校歌の話は聞いておりませんでしたから、この申し出には面喰いました。「本校の校歌は卒業生で作ることにした。」とも言われました。校歌作曲といった大事業は、自分には少々荷が重すぎるのではないかと危惧しましたが、学校命令とあれば断るわけにもいかず、お引受けすることにしました。
 服部先生の歌詩は、万葉調の七五調で文体は古語を用いて書かれております。風格のある格調高いものです。私は作曲の前に他校の校歌を一応参考のため調べてみましたが、校歌には判で押したような類似型があります。軍歌調、懐古調、壮士調などなど。そこで朝日校の校歌はなるべく型に嵌らぬように心掛けるとともに、男女共学であるからには男子にも女子にも抵抗なく歌える共通性をもたせることが重要であると考えました。ちなみに学校歌には明確な「性」をもつものがあります。歌曲の中にも「男性」「女性」「中性」「両性具有」といったものがあります。余談ですが、朝日高校が男女共学であるという現実が、今から思えば馬鹿々々しいことですが、当時の私は妙な違和感を感じておりました。戦中教育を受けたせいでしょう。作曲の前に先ず自分のもつ時代錯誤の払拭から始めねばなりませんでした。曲の骨格は両性具有です。この問題が最も苦労させられた点です。作曲は歌詩のもつ韻律を忠実にまもり、リズムの形を可能なかぎり統一し、音域も無理のないように、特に高音はあまり高い音を使わず、生徒が自然に歌えるように心掛けました。また曲趣が皮膚感覚的なものに陥らぬようにも配慮しました。応援歌は生徒会が在校生から歌詩を募集したもので、石川創一君の作になるものです。若人の溌剌とした意気込みと情熱を謳いあげました。応援歌は校歌作曲の二年後になります。
 私事で恐縮ですが、毎年集う吾々の同期会では、懐古談のあとで必ず校歌を歌います。吾々が歌うのは「世の盛衰を余所にして」で始まる旧中学校歌です。参加者の中には校歌を歌うために出席する者もおります。七十歳の坂を越えた老人が蛮声を張りあげる光景は、他人の目にはどう映ろうと、吾々にとっては童顔の時代にかえる至福の一時であります。
 朝日高校卒業の皆様も機会あるごとに校歌も応援歌も歌って下さい。それにつけても先輩が歌った一中校歌、第二高女校歌は時代の変遷とともに歌われることが次第に少なくなる運命にあります。どちらの校歌も名曲です。一抹の侘しさをおぼえるのですが、皆様方の若い力で、朝日高校の校歌同様に永久に歌いつがれていって欲しいものだと念願して止みません。

極貧の時代
平岡  勉(昭和十二年卒) 
〈昭和二十一年〜五十五年在職〉

 入学したのが丁度昭和七年四月、日本が極貧のさ中だった。しかし、田舎出の私には、入学式の華麗さは目を見はるばかりだった。壇上に立った正五位勲五等燕尾服姿の学校長は胸に勲章を三個きらめかせていた。少しさがって巨躯鷹揚そのままの教頭がフロックコート姿でのっそりとひかえ、四十数名の口ひげもいかめしい教官連がモーニング姿で粛然と居並び、軍服姿に勲章の軍事教官三名も加わり、文字通り綺羅星さながらだった。そして正面の扁額には校訓の「自主自立」の四文字が小さく読みとれた。
 私は一年ヌ組に配属され、入学試験で三番のHが級長で左側窓際の一番後の席にひかえ、授業の初めに「起立、礼、着席」の号令をかけ、八番のNが副級長で、右側廊下側の一番後の席にひかえ、授業の終りに「起立、礼、着席」の号令をかけた。さしずめ左大臣と右大臣といった所か。他の者は皆身長順で、私の周りには「ガマ」「アヒル」「ユーレー」「オバケ」などが居た。最前列には極貧日本の象徴たる極小の「ウズラ」「マメ」「ノミ」「シラミ」「ゴミ」などが居並び愉快なクラスだった。
 担任もまた極小で、最前列の極小共をおだてて
  宝玉何ゆえかく小さく
  御影石何故かく大なる
  神のみ心小さきものに
  高き価を与えしためぞ
とロバート・バーンズの寸詩を披露して笑われた。案の定このウズラ、マメ、ノミ、シラミ、ゴミの五人が後年揃って大成したから不思議と言えば不思議である。先生の閻魔帳の表紙には「群英集芳」の四文字が大書きしてあった。
   ×  ×  ×   
 話変って、私が母校の教壇に立つことになったのは、昭和二十一年、終戦直後の我国の荒廃がどん底状態の時だった。当時担任したクラスの写真が今手もとにあるが、黒の制服にまじってカーキ色の服が十六人もいる。最前列八人の足もとを見ると、ズック靴が三人、下駄ばきが四人、草履が一人で、私自身も軍靴のままである。学帽だけはなぜか皆揃っていて、眉のきりっとした童顔である。
 往年の天守閣は無く、木造の仮校舎はひどい荒れ様で、大勢の生徒がひしめき合っていた。言葉は荒く、教室と言わず廊下と言わず、闊歩する下駄の音は騒然として、私もついつい眉をつりあげて度々怒声を発した。昔私が入学した頃のような極貧の時代ではないが荒廃を極めた時だと思う。
 イギリスのチップス先生はブルックフィールドの中学校に四十三年勤めて、親子孫の三代にわたってラテン語を教え、暗誦を怠った子供がいると鞭を与え、「お前のお父さんは……」「お前のおじいさんは……」と昔話を持ち出し、そして楽しがったというが、私も三十三年勤めて親子二代にわたることもあったので、チップス先生にあやかって、「お前のお父さんはこうじゃなかった」など出まかせを言って、せめて少しでも楽しい教室にしようとつとめた。今から思うとなぜかなつかしい。